電子端末とネット環境の急速な普及・進歩に伴い、キーボードから入力(タイピング)する場面が増大する反面、ペンで文字を綴る(手書き)機会が減ってしまった現代。
漢字変換や綴り訂正、カット&ペースト等々便利なインターフェース環境のお陰で物量をこなすことを容易にしたコンピュータ上の文章編集に、今や何の抵抗を示す余地も無くしてしまったかのように思われます。
長くこの環境に慣れ、自然に使いこなすまでになった我々の多くは、その代償としてある種の脳の変化を自覚した経験が多少なりともあるのではないでしょうか。
例えば漢字。目にすれば正解が容易に判断できたのに、いざ書き出そうとしても手が止まってしまう場面が増えたなど。それは老化の影響だけではないかもしれません。画面上の操作を習熟する機会が増す陰で、ペンを持って紙に文字を書く機会が減れば、関連する部分の脳の働きもまた発達する一方で衰えてしまうのは、不思議なことでは無いことは経験的にもご存知の通りです。
文字を扱う機会を巡っては、選択メニュー化や音声入力技術の発達により今やキー入力すら不要な便利な仕組みが身の回りで日々広がり続けていますが、「読めさえすれば筆順や発音も含めて文字を正確に覚えている必要性は無くなった」とまで云える程に万能な社会になっている訳もなく、むしろ大事な場面では意図的に手書きが残される考え方も多くあります。
手書きについての話題として脳科学/認知科学の幾つかの研究報告ではその有用性について既に指摘されており、例えば、文字または記号はタイピングを通じて学んだ場合よりも手書きの方が、その後の記憶への定着が勝るという興味深い内容です。これに関連して、筆の運びは文字の記憶と関わりがあることが示唆されており、これは我々日本人には経験的に知られているように、漢字を覚える際、空中に指を走らせる動作を行なう行為にも通ずるものであるとされます。また別の研究では、買物のメモを紙に書いた後、仮にそのメモを失った場合でも、内容を思い出し易いのも手書きにみられる傾向であるという報告もされています。
このように手書き(手のストロークを用いて文字を綴ること)の記憶に関わる効能が少なからずあることが既に把握されているとはいえ、情報産業の大勢は(これまでの技術水準の影響も関与しているかもしれませんが)異なる方向に発展している点が危惧されます。
タイピングも使いようでリアルタイムに聞き取った内容をメモに残す際は、タイピングはより素早く文字を入力できるため、結果的に情報量としては多く残せるとされます。しかしながら、聞き取りながらのタイピング中は機械的に入力している一面があり、内容の記憶という点では手書きの方が長期記憶への定着が良いという研究報告もあります。手書きの場合、速度に限界があるため、一定程度で内容を要約する課程を経る必要があることから、結果的に記憶への定着も良くなるとのことです。
ただ、タイピングした文を後から読み返し要約する前提ならば一概に優劣はつけられないのかもしれません。更に云うならば、モノは使いようであり、もはや機械的と云える作業は機械化すれば良いのであり(例えばレコーダーなどの活用)、聞き取り中は本質的な意味の理解に努め、この行為に集中できるメモの方法(手書き等)を選択することこそが大事なのではないでしょうか。
何れにせよ、もはや必須であり後戻りすることは考えられない関係にあるコンピュータとインターフェースした社会において、ある意味新しい脳の使い分けが求められているのであると考えます。
そして、未だ人の脳の働きは科学的に充分解明されている訳ではないがゆえ、コンピュータの活用メリットを理解しつつも一足飛びに傾倒してしまうことなく、手書きを介し享受できる少なからぬメリットについてもまた安易に放棄せず、双方を使い分けるシーンを意識して上手に活用していくことが、現代人に必要とされる知恵なのではないかと考えます。